本日も、こまりあ日和。

好きなことを好きな風に語るだけ

「過去」と「他人」は変えることができない

人間関係に関するもやもやの8割くらいはこの2点に集約されるのではないかと思います。

「察してほしい」という傲慢

事実を言っているだけだと言われてしまったらそれまでですが、自らの力では変化できないことに心の安寧を奪われるのは誰にとっても嬉しくないことでしょう。
それでも日々生きている中で、特に「他人」を自分の思い通りに変えたいと(意識的にも無意識的にも)願ってしまう人は少なくありません。

自分の思いを「察してほしい」なんてのは、まさに他人を思い通りに動かしたいという感情の代表例だと思います。
私たちは「自分が気づけるのだから相手も気づけるはずだ」とついつい考えてしまいがちですが、別の人間である以上、相手の見えている世界と自分の見えている世界は似ているようで決して同じではありません。
以前、錯覚により「ドレスの色が人によって違って見える画像」が流行ったことがありました。
あれはあくまでも「見えている色」だけの話でしたが、似たような事例として同じ「言葉」を聞いても何の感情も動かない人もいれば、一生が変わるくらい感激する人もいることがあります。もっと言うなれば、同じ人だとしても幼少期に見たアンパンマンと思春期にみたアンパンマンでは同じ人だとしても受け取り方が異なるでしょう。
同じ人でもその時の立場や状況によって「見える世界」が変わるのだから、他人の場合は推して知るべしです。

自分が相手に伝えなかった・伝わらなかったことは相手の世界では「なかったこと」と同じなのですから、なかったことを察してほしいなんて、相手がどこぞのピーナッツが大好きな超能力者(エスパー)でもなければ難しいでしょう。*1


毎日ご機嫌な私でいたいから

結局のところ「変わることができるのは「未来」と「自分」だけ」なんてありきたりな結論が導き出されるわけですが、だからと言っては私は「自分を変えるべき」とは言いたくありません。
「自分」を変えたいと思うのも思わないのも本人の意思だし、どちらを選んだにせよ自分の選択が「過去」になった時には変えることはできないのです。そして、未来の自分がどう思うかなんて今の自分にわかるわけがありません。



それでも明日の私が今日よりご機嫌でいるために自分が「変わりたい」と願うのなら、それはきっと素敵な一歩になると思うから。

*1:もちろん、コミュニケーションをする上で互いの気持ちをおもんぱかる努力は大事だと思います。けれども、人によって見えている世界が違う以上、察してほしいと嘆くのではなく互いの世界が少しでも想像できるよう歩み寄るしかないのではないでしょうか。