本日も、こまりあ日和。

好きなことを好きな風に語るだけ

好きより得意を仕事にした方が、結果として人生楽しい気がする

某動画配信サイトのキャッチコピー「好きなことで、生きていく」。
昨今、「好き」を仕事にすることが最も現代的で良い仕事の選び方であると語られることが多いですが、好きを仕事にすることで全員が全員幸せになれるとは思えません。

「好き」にも色々な形がある

ひとえに「好き」といっても、人それぞれ様々な向き合い方があると思います。
「24時間365日永遠に考えていられる」というタイプの好きであれば、好きを仕事にすることで仕事に全力コミットでき、結果として成果が上がる可能性が高くなるため、幸福になれる確率も高いと言えるでしょう。
しかしながら「触れるとよい気分転換になる」的な好きであった場合、仕事とした場合、少なくとも1日8時間はその「好きなこと」に向き合い続けなければならないとなれば、その「好き」という感情がわからなくなってしまうのではないでしょうか。「好き」を仕事にしてしまったことで、「好き」がわからなくなってしまうなんて本末転倒も良いところです。

「好き」を仕事にしたいと思った際には、まず一度、自分の中の「好き」の種類について考えてみるとよいと思います。

得意なことを人間は結局「好き」になりがち

では、仕事を選ぶときには何を軸にしたらよいのでしょうか。
(こちらもよく見かける言説ではありますが)個人的にはやはり「得意なこと」を一つの軸として据えるとよいと思います。

何かしらの組織に属して働く場合でも、フリーランスとして働く場合でも、仕事を依頼主に「評価」をしてもらわなければお金にはつながりません。
私個人としては、人がお金を払うのは「自分ではできないこと」か「自分ではやりたくないこと」だけ*1だと考えており、「得意なこと」であれば「自分ではできないこと」として評価される確率があがるでしょう。
他者からの評価はマズローの欲求5階層説でいうところの「社会的欲求」「承認欲求」に密接しており、欲求が満たされていくことで自然と「得意なこと」が「好きなこと」へと変化する場合も多いのではないかと思います。小さい頃、サッカーが上手だとほめられたから嬉しくなって自然と沢山練習するようになり、いつの間にかサッカーが大好きになっていたといった経験がある方は少なくないはずです。
仕事もそれと同じで、得意なことを仕事にすることで評価されることが増え、結果として「好き」だなと思える部分も出てくるのではないでしょうか。




とは言いつつも、個人的には早くベーシックインカムが導入され「働きたい人だけが働く未来」が来ることを願っております。

*1:詳しい話はいつか別記事で書きたいです。

どうぶつの森は現代人とっての「田舎のおばあちゃんち」だと思う

夏になりミンミンゼミの大合唱が聞こえ始めると、何故だか都会の喧騒を離れて存在しないはずの田舎のおばあちゃんちに帰りたくなります。

「田舎」は実はファンタジー

そこそこの街中で生まれ育った私にとって、いわゆる畑があり田んぼがあり、バスが1時間に1本もこないような場所というのはどこか特別で遠い世界でした。トトロやサマーウォーズで描かれたような絵にかいた田舎なんてものは身近になくて、同じ日本のはずなのにどこまでもファンタジー
それでも物語の中に登場する田舎を見てどこか懐かしいと感じるのは、ゲームの世界などでそれらを感じていたからなのではないでしょうか。

その中の代表例の一つが、2019年3月コロナ禍の始まりに大流行した「あつまれどうぶつの森(以下あつ森)」をはじめとする「どうぶつの森」シリーズです。

確かにあの日、私は自分の手でカブトムシを捕まえた

どうぶつの森」は第1作目が2001年にNINTENDO64向けソフトとして任天堂より発売された、どうぶつたちが住む村や島に移り住みほのぼのとした生活を楽しむゲームシリーズです。村に移り住んだプレイヤーキャラクターを操作して住民たちとコミュニケーションをとったり、魚釣りや虫取りに勤しんだり、はたまた
家具やファッションのコーディネートを楽しんだりと自由気ままに過ごすことができます。

このゲーム、プレイしたことのある方はご存知かと思いますが、昔から魚や虫の描写が(その時代のゲームスペックに合わせてではありますが)丁寧で、ゲーム内で見たことのある生き物を実際に見ると「これはあの時海で釣ったスズキ……また おまえかー?!*1」と思えるくらいには区別して描写されており、小さい自分にとっては本物を自分の手で捕まえたような達成感と特別感をもたらしてくれました。
大人になり、ふと公園で聞こえるセミの大合唱に、実際にはほとんど目にしたことのないはずなのに声の持ち主の姿を自然と思い浮かべることができるのはまさに「田舎のおばあちゃんち」ならぬ「どうぶつの森」での夏休みの思い出の象徴なのかなと思います。

木々のざわめきと潮騒の音、季節や時間ごとに変化していく空模様、早起きして捕まえたカブトムシ……むせるような草木のにおいや、うだるような暑さを肌で感じてはいないはずなのに、なぜだか鮮明に思い出される画面の向こうの記憶の数々は、間違いなく現代的な形ではあるものの自分の足で自然を感じた経験です。
このご時世、なかなか対面で自然と触れ合うことのできる機会は減ってしまっております。しかしながらゲームという形でもそのエッセンスを感じることはできるのではないでしょうか。



かく言う私は、しばらく島に帰っていないため、家で出迎えてくれるであろう「あれ*2」が少々恐ろしいですが……。
みなさまも小学生の頃「田舎のおばあちゃんち」で過ごした夏休みの気配を感じに、住民たちの待つ島や村に帰ってみませんか?


*1:ゲーム内でスズキを釣った際のフレーバーテキスト。大物を狙うと定期的にスズキがかかるため、ついつい覚えてしまうフレーズ。残念ながら、あつ森では時代に合わせてか変更されている。

*2:MOTHER2のサターンバレーあたりの洞窟で出るあれ

「過去」と「他人」は変えることができない

人間関係に関するもやもやの8割くらいはこの2点に集約されるのではないかと思います。

「察してほしい」という傲慢

事実を言っているだけだと言われてしまったらそれまでですが、自らの力では変化できないことに心の安寧を奪われるのは誰にとっても嬉しくないことでしょう。
それでも日々生きている中で、特に「他人」を自分の思い通りに変えたいと(意識的にも無意識的にも)願ってしまう人は少なくありません。

自分の思いを「察してほしい」なんてのは、まさに他人を思い通りに動かしたいという感情の代表例だと思います。
私たちは「自分が気づけるのだから相手も気づけるはずだ」とついつい考えてしまいがちですが、別の人間である以上、相手の見えている世界と自分の見えている世界は似ているようで決して同じではありません。
以前、錯覚により「ドレスの色が人によって違って見える画像」が流行ったことがありました。
あれはあくまでも「見えている色」だけの話でしたが、似たような事例として同じ「言葉」を聞いても何の感情も動かない人もいれば、一生が変わるくらい感激する人もいることがあります。もっと言うなれば、同じ人だとしても幼少期に見たアンパンマンと思春期にみたアンパンマンでは同じ人だとしても受け取り方が異なるでしょう。
同じ人でもその時の立場や状況によって「見える世界」が変わるのだから、他人の場合は推して知るべしです。

自分が相手に伝えなかった・伝わらなかったことは相手の世界では「なかったこと」と同じなのですから、なかったことを察してほしいなんて、相手がどこぞのピーナッツが大好きな超能力者(エスパー)でもなければ難しいでしょう。*1


毎日ご機嫌な私でいたいから

結局のところ「変わることができるのは「未来」と「自分」だけ」なんてありきたりな結論が導き出されるわけですが、だからと言っては私は「自分を変えるべき」とは言いたくありません。
「自分」を変えたいと思うのも思わないのも本人の意思だし、どちらを選んだにせよ自分の選択が「過去」になった時には変えることはできないのです。そして、未来の自分がどう思うかなんて今の自分にわかるわけがありません。



それでも明日の私が今日よりご機嫌でいるために自分が「変わりたい」と願うのなら、それはきっと素敵な一歩になると思うから。

*1:もちろん、コミュニケーションをする上で互いの気持ちをおもんぱかる努力は大事だと思います。けれども、人によって見えている世界が違う以上、察してほしいと嘆くのではなく互いの世界が少しでも想像できるよう歩み寄るしかないのではないでしょうか。

それでも私は「多様性」を信じたい

元号が「令和」に変わってから早数年、世の中は半強制的に変化の時代を迎えているのかなと思います。

 

COVID-19による日本社会の強制アップデート

わかりやすいところで言えば、「COVID-19」の世界的な大流行。

2019年冬、中国で発見された新種のウィルスは瞬く間に世界に広がり、2020年春から今に至るまでその勢いはとどまるところを知りません。結局のところ風邪と同じで特効薬がないのだから共生していくしかないとか、医療崩壊が起きてしまってはいけないから引き続き自粛すべきだとか、様々な人が様々な立場から意見を発していて、世論はまだまだ一つの結論を導き出せない様相です。

亡くなってしまった方や後遺症で苦しんでいる方を思うと胸が苦しくなりますが、結果として「COVID-19のおかげ」といっても良いくらいこの数年で日本の社会は否応なしに「多様性」を受け入れるためのアップデートが行われているのではないでしょうか。

例えばそれはリモートワークという形であったり、本当は気の進まなかった人付き合いの減少であったり……。過去の常識に囚われず時代に合わせて変化していくことは、誰かにとっては今まで大切にしてきた「普通」を否定されるようなものだから必然的に反発が強くなります。けれども、COVID-19という誰のせいでもない都合の良い理由があることで、自然と変化できている面もあるでしょう。

 

「多様性」が許される世界はどこまで広がるのか

とはいえ、こうやって時代に合わせて変化できているのはまだ一部の余力のある世界の話だということを忘れてはいけません。インターネットの発達により、今まで交わっていなかった様々なコミュニティに属する人々の意見が可視化され(それでも見えてくるのは何かしら「発信」する余力のある人々の世界までだけれども)、自分の周りで当たり前だと思っていることが世の中の当たり前とは違うことを痛感しています。

まだ強制アップデートが実施されていない世界にも時代の波はゆっくりとだが着実に届いているだろうし、変化のきっかけは人手不足や業績不振といった消極的な理由かもしれないけれども、社会は少しづつ変化せざるを得ない状況になっていくのではないでしょうか。

 

私個人としては「多様性を認めない人がいることこそが多様性である」と信じているけれども、それでもやっぱり一人でも多くの人が「ありのまま」でいられる多様な社会の実現を願わずにはいられないです。

 

 

 

なんてね。